| 25年前の4月、まだ東京には羽田空港しかなかった時代のこと。
(「えぇー? 国際線は成田でしょ?」なんて言ってるあなた、まだまだ青いわねぇ(-。-)y-゜゜゜)
私たち家族はそれぞれ一番上等の服を身に付け、沢山の親戚に囲まれながら、彼らと手と手を取り合って号泣しつつ、羽田空港の出国ゲートへと向かった。今にして思えば、なんたる仰々しい光景だ。しかし、当時は「二度と日本の土は踏めねぇ・・・」くらいに受け止めていた。東京から台北。たった3時間で行ける外国であるにも関わらず、だ。今の時代子供だって、ハワイや韓国、台湾くらいどんな国で、どこにあるのかくらい把握していると思うけど、当時のkaoも私もそれこそ
♪赤い靴〜はいてた〜女の子〜♪
になった気分。これからどこに連れて行かれるのか訳もわからずビクビクしてた。(関係ない話だけど、赤い靴の二番で「♪今では青い目になっちゃって〜♪ とあるけど、私はこのフレーズを聞くたびに、「んなわけないだろう!」と突っ込まずにはいられない・・・)
チャイナ服以外の普通の洋服は売っているのか? お菓子は売っているのか? 沢山の?マークを頭に、飛行機に乗っていたように思う。「さよならわが故郷、日本よ〜〜」って感じに。
私たち姉妹にとって初めての外国、台北に着いたのは、夜だった。
台北の松山空港から南京東路にあるマンションまで車で20分くらいなのだが、とても長く感じた。段々と街に近づくに連れ、増えるネオンの光。デパートも店もクリスマスのような派手なネオンでギラギラしてた。「おぉ(^。^) なんやギラギラやんけ! 今まで住んでいた東京の練馬より全然都会やんけ!」それが台北に対する第一印象だった。そのギラギラの中を抜けて、住宅街へかと思ったら、そのギラギラのネオンのド真ん中でタクシーが止まった。そう、ここがこれから私たちが住むマンションだった。(◎o◎)
翌日、朝早くからうちの呼び鈴が鳴った。父はすでに仕事に出掛けており、母と私たち娘は呼び鈴に怯えた・・・。「どうしよう!」開けるべきかなのか、それとも開けない方がいいのか・・・。しかし考える間も与えないといった感じに、ドアの向こうからドドドドンとノックする音と一緒に「カァトウさん! カァトウさん!」という日本語に訛りのある女性の賑やかな声が聞こえた。
恐る恐るドアを開けると、その女性は早口の日本語でこういった。「わぁたしィ、下に住んでいる郭さんです。朝、食べ物買いに市場行く、一緒に行く、いいあるね?」NOという答えは聞かないあるよと言いたげなお誘いに、私たち3人はすぐに支度を始め、その郭さんのおばちゃんに付いて市場に出掛けた。
歩いて5分くらいのところに市場はあった。入口のところから只ならぬ匂いが漂っていた。生ぬるい〜臭くて〜嗅いだことのないような・・・魑魅魍魎? の香りが・・・。おぉ! キョーレツゥ! その匂いの正体はすぐにわかった。最初に目に飛び込んできたのは、檻。ただの檻じゃない。鶏が朝の満員電車寿司詰め状態で押し込められた檻だった。郭さんが言った。「鶏肉買うあるよ。私、買うあるから、待つあるよ」
えっ? 郭さんはその檻の中にいた一匹の黒い鶏を指差して、早口の台湾語で市場のおばちゃんに何か言った。市場のおばちゃんは鶏の入った檻を開け、郭さんの指差した黒い鶏を取り出し、(取り出しといっても、その鶏は激しく抵抗して、コココ・・・・!! と羽をバタバタさせ・・・それだけで面食らう私たちであった・・・)市場のおばちゃんは平気な顔をして、鶏の首を180度折りまげ、結び、後ろにある洗濯機のような機械に放り込んだ。キヤーーーーーーーー! 洗濯機に入れられた鶏は「お助けくだされ〜〜」というような悲鳴を上げながら、回転し、黒い羽が四方に飛び散った。そして、数分後丸裸になって機械から出された。ウンギャーーーーーー! 透明のビニール袋に入れられた鶏はお金と交換に郭さんの手に渡された・・・。
郭さんの手に下げられた息絶えた鶏ちゃん、郭さんが歩く度にその鶏ちゃんは郭さんの腕の下でゆ〜らゆら「うらめしや〜」という白目をむいてこちらを睨んでいる。恐怖のあまりカチンカチンになりながら郭さんの後ろを付いて歩いてた。正直怖いもの見たさもあって、気になって目が離せなくって。黒い鶏は裸にされても黒い肌してるんだ・・・こんな冷静さもあったりなんかして・・・。
しかし、そんな私の鶏視線を遮ったのは、何じゃこりゃーーーーーー! さらに大物の登場、豚の顔だった。( ̄□ ̄;)
台の上に豚の足やら胴体やらが切断されて並べられていた。そして、当然といったようにお面のような豚の顔も並べられていたのだ。台に並べられた豚のパーツを1つ1つパズルのように繋ぎ合わせたら、1匹の豚が完成しそうだ。
その他に今まで見たことも無い果物、大きなナス、いんげん豆・・・。どれをとっても驚きの連続だった。当時まだカルチャーショックなる言葉は知らなかったけど、まさにこの言葉がドンピシャの台湾初日の朝だった。
台湾にやってきて、何日か後。
ついに台北日本人学校の新学期が始まった。日本人学校は松山路という郊外にあった。小学部と中学部が同じ敷地内にあったので、小学校5年生だった私と中学2年生のkaoも同じ場所に通うことになった。小学部は5年生までは各学年2クラス、小学六年生〜中学部は1クラスずつだった。
初登校日。ここでも( ̄□ ̄;)。日本の学校をイメージしてはいけなかった。校舎は古いアパートを数棟(4棟だったかな・・・)を改造して校舎として使っていた。4階建てくらいの細長いアパート。だから教室の中央に柱がドドンという部屋もあったり。全校で500名くらいだったと思う。
日本各地から集まった生徒だったので、いろんな方言が飛び交っていたのにもまたびっくり。
そして、教室に案内され、またまたびっくり発見! 日直だったか、学級委員を決めたかで、クラスメイトが男女1名ずつが呼ばれ前に出た。その時、誰が何を言ったのか忘れたが、女の子の方が拍子抜けと言う感じで「ガクッ」と言って片手を上前方にあげ、海老反るような動作をした。それを見て大笑いするクラスメイト。えっ? そのギャグ、日本では確か数年前に消滅したはずではないか? 「このギャグがまだ生きているなんて!」本当にタイムマシーンに乗って、一昔前にやってきてしまったそんな気分だった。
翌日、いよいよ初めてスクールバスでkaoと2人で学校に行き、帰りのスクールバス、でのことだ。どこで降りるのか、全くわからなくなってしまった。見たことのあるような風景、でも違うような風景・・・。どこだ、どこだ・・・と迷っているうちに、バスの中には私たち2人だけとなってしまった。スクールバスの女の車掌さん(台湾の人だった)がつたない日本語で「次、最後! バス帰る!」と言った。えっ! 私たちは仕方なく次のバス停で降りた。見たことのあるような、でも、ないような風景。でも、2人して歩き出した。歩けど歩けどわからない・・・。日の長い台湾であっても、もう夕方が近づいていることがわかった。
「kao、どうする?」
「どうしようったって・・・どこに家があるのかもわからないからね。やってみるか! あれで・・・」
あれとは、今朝、万が一の場合に備え、父が紙に書いて渡してくれたものだった。
「南京東路、中山北路 十字路 。(南京東路と中山北路が交わった交差点)右ツワン(右に曲がる) 左ツワン(左に曲がる)一通走(真っ直ぐ)前面到了(そこで停めて)」とタクシー用語が書かれたものだった。
「えっ? kao、私たちだけでタクシーに乗るの? それで通じなかったらどうするの?」
「でも、ここにいても仕方ないじゃん! yuka タクシー拾うよ!」
こうゆうところが、長女の頼もしさである。
タクシーが溢れ返った台北の街で、タクシーを拾うのは簡単だった。しかし、問題はタクシーに乗って家に無事帰られるか否か・・・。
kaoがえらく緊張した声で言った。
「ナ・ン・チ・ン・ト・ン・ルー ツォン・サン・ペイ・ルー スー・ツゥー・ルー・コウ(南京東路、中山北路、十字路)」
「あぁーーーーー?!(なんだって?)」(志村けんがやる耳の遠い老人役を地でいくリアクションだった)
こちらのオドオドした口調を何にもわかっちゃくれてない! と言ったような運ちゃんの無愛想な声。ど、どうしようーーー。加藤姉妹大ピンチ! さて、この姉妹、異国の地で無地家に帰られるのか? つづく・・・。
はやくも続き。kaoはもう一度声を震わせながら紙を読んだ。「ナンチントンルー・・・・」すると運ちゃんは「あんたら何読んでるんだ?」と言いたげに振り返り、kaoが読んでいた紙を奪い取った。
「あぁ・・・・(なんだそういうことか)」っといった感じに車を走らせた。後部座席であんなにも姿勢良くタクシーに乗ったことは後にも先にもない・・・。kaoと2人、背筋をピンとさせ、今にも心臓が口から出てしまいそうな感じだった。
車は南京東路を走り、目の前に見覚えのある風景、そう中山北路が見えた。
kaoが言った。
「ヨウツワン、ヨウツワン(右に曲がって、右に・・)」
と言ったにも関わらず、運ちゃんは「××○○★☆*−−−−!」と言って、右に曲がってくれもせず、南京東路を直進、中山北路を渡り、南京西路に進んでいった。
「つ、連れ去られる・・・・・・・・」
kaoと2人手に手を取り合い、ガタガタ震えた。
「ツォン・サン・ペイ・ルー! ツォン・サン・ペイ・ルー !」
まるでバレーボールの応援「ニ・ッ・ポ・ン、ニ・ッ・ポ・ン」の掛け声のように、kaoと2人で大声で叫んだ。すると運ちゃんは「 ××○○★☆*−−−−!」とまた言って、手を回転させるようなジェスチャーをした。
そのジェスチャーは、ま、まさに「あんたらを縄で結んで連れて行くある!」とことか? つ、連れていかれる〜〜〜!
恐怖がMAXに達した私たちは「チェンメンタオラ! チェンメンタオラ! (ここで止めてくれ! ここで!)」と半狂乱状態で叫んだ。タクシーはそれでも尚スピードを上げ・・・・と想像してたけど、あら? いともあっさり急ブレーキを掛け、止まってくれたじゃないの。
(そののちわかったのだが、南京東路から中山北路は右折禁止のところで、運ちゃんは多分「右折禁止なんだよね・・・」と言って、ジェスチャー付きで「南京西路渡ってUターンして左折するから・・・」と言っていたのだろうと推測する・・・・。そして、私たちがバスから降りたところは家から歩けば1時間くらい掛かるだろうとんでもない場所だったことものちにわかった)
台北日本人学校での思い出
●校庭の周りが山に囲まれていた。台湾ではその昔、山に骨を埋める(墓)習慣があったようで、ある年、すごい台風があった後、学校に行くと人骨が校庭に沢山溢れていて慄いたことがあった。土葬だから頭蓋骨とかそのまんま校庭に沢山転がっていて・・・。
●また裏山には養豚場があった。豚が出荷される時、生きたまま体に鉄を熱した印を押されるそうで、月に数回は豚君の「熱いの勘弁してくだされ〜」と言ってるだろう「ブヒャヒャヒャーーー」「ブヒィーーーーーー」のすごい悲鳴がこだまして、のどかな授業を妨害した
こんな感じで始まった台湾での生活。その後kaoは6年、私は5年・・・父とは母20年以上を台北の街で過ごした。
たった5、6年と言われるかも知れない。でも、今のように1年があっという間に過ぎてしまうような5年間では決してなかった。もっとゆっくり時間が流れていた多感な時期での5年間だ。その5年間で私たちは多くのことを体験し、吸収し、学んだように思う。いつ振り返っても、あの台湾での生活がなかったら、今の自分たちはなかったなぁと思うからだ。少し大袈裟だけど私たち姉妹の原点って、あの熱(暑)くていギラギラして、エネルギッシュな国、台湾での生活にあると確信するから。大好きな場所である。
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