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先日、母校(高校)の関係者のT氏とお会いした。私の母校は東京にある女子高なんだけど、今少子化の影響もあり、生徒数が激減しているのだそうだ。そこで、学校側は学校再建の一環として卒業後キャリアを積んだOGにインタビューし、高校時代の自分のあり方とか思い出とか、今の在校生へのアドバイスなどの話をするという企画が持ち上がり、某有名病院の副看護師長のTから始まり、看護師だったTちゃん、イベントコンパニオン・ナレーターの指導育成の講師をしているEからバトンタッチされ私のところにその話が来たのだった。
さして輝かしいキャリアがあるわけでもない私だから、気軽な気持ちで引き受けた。T氏とインタビューというよりは半ば雑談のような話をしていくうちに、改めて自分の生きてきた道っていうか、多感な年頃の自分を思い出した。話しているうちに、今のすっかり大人になってしまった私と、大人のいうことに素直に耳を傾けられず、型にはめられることに嫌悪感を感じていたあの頃の自分と向き合って対話しているような気がした。そして、話の中で私が何故単身、家族のいる台湾から日本に帰国し、母校に入学することになったのかの話になったのだけど。う・・・・ん、そうだよねぇ・・・やはり不思議に思うわね。15歳の女の子が親元離れ、海も越えて、生活するってこと。当時の私は「もう私は15歳! もうほとんど大人じゃん!」といきがっていたけど・・・。今にして思えば「あんたまだまだヒヨっ子だよ」の年齢だもんね。
台湾には義務教育の小、中学校までは日本人学校があるのだが、台湾に残り高校に行くには2つしか選択がなかった。現地の台湾の高校に通うか、台北アメリカンスクールに通うかのどちらか。2歳年上のkaoは親の言う通り台北アメリカンスクールに通っていた。勿論親は私にもkaoと同じようにアメリカンスクールに通いなさいと言った。
しかし、当時の私はアメリカ人とか外国人は大好き(変な意味じゃなくてよ!)だけど、英語が大の苦手で大嫌いで・・・、英語の授業さえも嫌いなのに、数学、国語、社会、理科、体育、それに部活までALL英語のアメリカンスクールなんて登校拒否になりなさいと言われているような環境じゃん。考えただけでも15歳の希望に満ち溢れた私の心は超ブルー、お先真っ暗の高校生活しか想像できなかった。
英語・・・。英語・・・。いやーーーーいやーーーー!!
ここで、私の「大嫌いな英語」歴〜〜〜。
父は早くから海外で仕事をしたいと考えていたので、私が幼稚園の時、父は頻繁にハワイに行っていた。ハワイで何かしらビジネスをしたいと思っていたらしい。今でも記憶に残っているのは年中の七夕祭りの短冊に私は
「ハワイにいってもたくさんともだちができますように」
なんて書いたこと。ケーーーッ、嫌な子だねぇ・・・。友達が皆
「ゆかりちゃん、ハワイってなに?」
「ハワイってどこ?」と聞く中、
「えーーーっ? あんたたちハワイも知らないの?」
なんて言っていた私は、相当嫌なガキじゃん! でも、それだけ父は家族に「ハワイに行くぞ! ハワイに住むぞ!」と言い聞かせていた(洗脳ともいう)ということだ。だから、今じゃ小さい子が当然のように習っている英語だけど、私たち姉妹は当時としては珍しく小学校に入る前から英語を習わされていた。近所の日本人の男の先生が教えてくれる小さな英語教室。私は当然嫌で嫌でたまらなかった。この教室、レッスンが終わると、お茶とお菓子が出るのだが、授業の合間も
「早く終わらないかな・・・」
「まだお茶の時間じゃないのかな・・・」
と先生の授業なんかそっちのけで、遠くの台所の音にばかりに耳を傾けていた。そろそろ授業が終わりとなる頃合を見計らって、先生の奥様が台所でお茶の用意を始める、そのカップとかお皿がカチャカチャ触れ合う音ばかり気にいていたのだった。正直言ってこの教室に通っていた5年近くの授業の中で、覚えたことはと言えば、「グリーンボトル」と「一週間」そして「インディアン」の歌、そして、HELLO、GOOD BYE、I LOVE YOUくらい。そして先生がつけてくれた私のアメリカンネームが「リリー」で、それが百合の花という意味だということだけ。お金をドブに捨てるってまさにこのことであろう。
台湾に行ってからは、エール大卒のアメリカ人家庭教師・ボブを母はどこかから見つけてきた。これがまた嫌でねぇ。彼は時間になるとヴェスパに乗ってやってきて、マンションのエントランスの呼び鈴を鳴らすんだけど、私はよくその呼び鈴を無視し、オートロックのドアを開錠してあげなかった。そして、5分後、ベランダからこっそり下を覗き込むと、ボブがヴェスパに座り込んで、英字新聞を広げ、待っている姿を見るのだった。
「ボブ、早くあきらめて帰ってよ!」と上から念を送りながら・・・。
10分くらい経つと、ボブはもう一度呼び鈴を鳴らし、あきらめて帰って行く・・・。
「やったぁ!」YES! YES! ガッツポーズをする瞬間である。しかし、Kaoがアメリカンスクールに入ってからは宿題やテストが大変なので毎日ボブがその指導にやってくるようになり、私も遂に逃げられなくなった。Kaoの勉強を見る前に、私が30分ボブのレッスンを受けなくてはならず、毎日が溜息の連続。英語の単語1つでも覚えた方がよさそなもの、どうやればレッスンしないで済むのかそればかり毎日(長時間)考えていた。ボブは多くのアメリカ人がそうなように大のジャンクフード好き、それに目をつけて、当時の台湾ではまだ高かった日本製のスナック菓子、中でもとんがりコーンがボブの大好物、それを山のようにお皿に用意し、レッスンに臨んだ。すると、ボブはスナックを食べることに忙しくなり、通常の授業の半分の量でレッスンは終わった。ボブが一番始めに覚えた日本語は
「とんがぁ〜り〜コーン だぁいすぅ〜き〜」だった。
英語のレッスンを受けないで済むようにこれほどまでに必死な私がアメリカンスクールに入るなんて無理でしょ? 私は親を説得した。そこで親が出した条件が叔母の家から通える学校ならいいという母校だったわけだ。
高校に入っても英語が大嫌いだった私だが、初めての高校での英語の授業の時、担当のT先生が「それでは英語で自己紹介をして下さい」と言った時、クラスの中で誰よりもきちんとした自己紹介ができたもの私だった。
「私の名前は加藤ゆかりです。台湾の日本人学校からきました。趣味は本を読むことと、文を書くことです。私の誕生日は昨日だったので、私は16歳です」
先生が英語で言った。「じゃあなたがこのクラスで一番年上なんじゃない?」
「はい、多分・・・。私もそう思います」心の中で「あら? 私って英語結構得意かも?」と天狗になった記憶がある。しかし、その後3年間T先生の授業中どれだけ私は
「このザル頭!」
と先生にお叱りを受けたか知れない。ザルに水を入れてもサーーーッと流れ落ちてしまうように私の頭も全然勉強が入っていかないという意味で。「このザル頭!」といわれるたび、「もうTの悪口、山のように書いて自殺して復讐してやる!」と多感な年頃の私は思ったものだ。
ところが、卒業式の後の謝恩会の時、T先生が
「あなたのことをよくいじめたけど、あなたはこの学校にいる誰よりもきれいな英語の発音ができるのだから、もっともっと英語が出来るようになるべきだと思ったからなのよ」
とおっしゃり、
「将来、貴女がどんな職業についてもいいから、決まったら教えて欲しい」と。
その言葉は私にとって思いも寄らぬ大きなプレッシャーとなった。でも、いつか何かになった時、先生に報告するとなったら、その職業が何であれ自分自身が誇れる何かになって報告したいと思った。大学時代、ただ漠然と学生生活を過ごす中でも、ふっとした瞬間にT先生のその言葉を思い出しては、プレッシャーを感じつつ、でも励みにもなっていた。
大学2年生の生の夏休みの時だ。アメリカンフードフェアというイベントをお手伝いしたとき、通訳でいらしていた元英国航空の客室乗務員のSさんと会い、3日間共にランチをした時に働いていたときの話を聞きすっかり「スチュワーデスいいじゃん〜」と思うようになったのだった。「あなた背もあるし、明るいし向いてるわよ」とSさんが言い「いや、私英語が大嫌いで大の苦手で・・・」と話すと「あら、大丈夫よ。今回のこのアルバイトだって英語が喋れることが条件だったじゃない?」そうだった・・・英語が喋れることがこのアルバイトの条件だった。だから、大学生のアルバイトにしちゃ時給がべらぼうに高かったのだ。その時給に目がくらみ「まぁ面接で落とされたら落とされただわ!」と身の程知らずの図太さで面接に臨み、ハッタリ英語で勝ち得た仕事だったんだ。「それに今からでもまだ勉強できるじゃない? 私が講師をしているスチュワーデス養成学校に来てみたら」と。
すぐに入学しましたよ、そのスチュワーデス養成学校に。週に2回、大学の授業が終わってからの夜、その養成学校に通った。生徒は私のように学生もいたし、OL、アルバイトをしながらスチュワーデスを目指している子と色々だったが、皆同じ目標に向かってお互いを高めあいながら頑張っていた。どの服で面接に行ったら印象がいいかとか、歩き方の練習とか、メークの練習・・・楽しかったなぁ。しかし、スチュワーデスになるには私にはやはり英語がネックだった。幸いこの物怖じしない性格、外国人の先生との授業は「ユカリ〜ユーアーベリーファニー」と、とても可愛がられたものの、肝心の英語の模擬面接となるとあふあふして「ユカリ〜普段のユーのおしゃべりはどこ行ったの?」と叱られる始末だった。そう、ボブのお陰で、外国人と喋ること、日常会話をすることは全然気後れしないんだけど、格式ばった会話になると急に寡黙になる私だった。
その時、親を恨んだ。もーーーー娘が英語嫌いだからアメリカンスクールには行かないとだだをこねても、首根っこつかんででもアメリカンスクールに入れてくれればよかったものの! 何で最終的に娘の意志を尊重しちゃったのよ! あのとき、親がガンとして親の主張を通してくれれば、私だって根負けしてアメリカンスクールに行ってさ、そしたら今頃英語だってペラペラだったのに! そうよ、アメリカンスクールに入ってたら、始めは英語が嫌いでも、ハンサムな同級生の・・・そうねコービー・ブライアントと知り合い、私は彼のお陰でメキメキ英語力がアップしたかもしれないのに! 何で15歳、まだまだ子供の娘の主張を通してくれちゃったのよ! だから、私は今こんなに苦労しなきゃならないんじゃない!
そうそう余談だが、私の友人に代々医者という家系のお嬢がいるが、彼女と話していた時「親はお前も医者になれって言わなかった?」と聞いたことがある。すると彼女は「ううん。ただ母は私に医者と結婚してもらいたかったみたいよ」彼女のご主人は医者ではないので「ふーん、結婚するとき親、よく反対しなかったね?」と言うと、「したわよ! した! でも今思えば、もっともっと反対してくれれば良かったのに! って思う、キーーーーッ」そういう彼女が可愛かった。余談終わり
だから、今回のSAYAKAと聖子ママの確執も複雑な心境で見ている私だ。18歳、ボーイフレンドも出来て、ママの干渉を受けたくなく、自立したいSAYAKA、ママだって今まで散々好き勝手なことしてきて何で私ばかりに? と反発する娘。それを「まだまだ18歳、あなたは若いのだから、先輩であるママのいうことを聞いていないさい」と主張する聖子。うーーーーん、難しいね。
でも、思春期には大人のいうことはわかならいものなんだよね。その答えがわかるのはもっともっとずーーーと先なんだろうね。
経験者にはすごーくよくわかるよ。
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