お茶と中国茶葉専門 お茶っぱロゴ 2005年6月1日更新
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渇茶的時間 一緒にお茶を

武迷(金城武ファンのことをこう言います)の方がお茶っぱのHPに来て下さり
このエッセイの感想や台湾について色々情報を教えてくださったり・・・
台湾、金城君を通して新しい交流が生まれることは、なんか単純に嬉しいです!
そんな武迷さんたちのご要望にお応えして今回は
今はなき「旧日本人学校松山校舎」について書かせて頂きます。
そうですね・・・台湾に思いをはせ梨山高山茶を飲みながら
昔の古き良き(まだ今みたいにキレイじゃなかった)時代の
台湾へどーぞ!

初めて日本人学校に行った日。Kao中学校2年生、私小学校5年生の新学期だった。いつもより少しかしこまったよそ行きの洋服を着せられ、先に日本人学校にお子さんを通わせている駐在員の奥様に同行して頂き、母と一緒に松山路にあった台北日本人学校へタクシーで向かった。私たちの家があった南京東路の繁華街からタクシーに乗ること30分、古いマンショと古い商店が並ぶひっそりとした田舎町?、 表の通りから少し入ったところでタクシーは止まった。

「さぁ着きましたよ」駐在員の奥様が教えてくれたんだけど、目の前にあるのは、幽霊が出てきそうな古いホーンテッドマンションというかアパート。学校というと、日本で自分が通っていた「いかにも学校!」というデーーーンとした建物を想像してたのでびっくり! すると駐在員の奥様が慄く私たちに向かってこう言った。

「普通のアパートを何棟か買って、それを学校用に直しただけだから」と。

小学部と中学部合同で全部で4棟のアパートが校舎として使われていた。だから、1戸のアパートの部屋を潰して、1つの教室を作っているから、教室の真ん中に大きな柱がある教室とか、あと中学部の教室は小学部より少し洒落ていて(洒落ているなんてレベルではないんだけどね) 教室の中にドアが3つあって、1つは使われていないバスルームに、小部屋が2つ。多感な時期の子供たちは「男子部屋」「女子部屋」として使ったりして楽しかった。男子はそこにH本なんかを隠してたりなんかしていた。それでも一応、技術室、家庭科室、図書館、理科室、保健室、購買部・・・普通の学校にある設備は整っていた。分散型の古い古い不恰好な校舎に驚きはしたが、私にとって台北日本人学校での一番のカルチャーショックは、何と言っても言葉だった。

台湾といえば「中国語」だけど、ここは日本人学校だ。皆日本語を話す。じゃ、何をそんなに驚いたかと言えば、私はここ日本人学校で初めてテレビで見る以外の、大人以外の関西弁を聞いたからだ。関東、関西出身者の割合は多分半々くらいだったんだろうけど、とにかく初めて聞く子供の生の関西弁は、「ここは外国なんだ・・・」というより、「あぁここは東京ではないんだ・・・」と新しい環境へ移ってきたことをより一層実感させた。

子供っていうのは、自分の育ってきた環境がすべてだから、よく関西VS関東でイントネーションについてケンカになった。例えば、お弁当の時、

「今日のおかずロッケなんだ」と言えば、
「はぁ? ロッケじゃなくてコッケやろ? ハハハ」と関西出身の友達が大笑いをする。
「えーーーコッケじゃなくロッケだよ!」と反論すれば
「なに言うてんねん。コッケやろ!」こんな感じに周りを関西勢に囲まれたら
「えっ? 今までロッケと信じて疑わなかったけど、コッケが正しかったの?」とわからなくなってしまう。

「レモン」「イチゴ」「ヘルメット」今でも激論を交わした言葉を覚えている。負けず嫌いな私は、くやしくて国語辞書でイントネーションが記してある辞書を日本から取り寄せ、その辞書を片手に「ほら!ルメットって書いてあるじゃん!」とか「ちごじゃなくて、いちじゃん!」と抗戦していた。しかし、大阪の友達は皆強気で「そんなん辞書あてにならんわ」と聞く耳を持たなかった。恐るべき大阪ガキパワー!(でも、私は大阪の子供が好きである) 東京と大阪のどっちがすごいか自慢対決もよくしたなぁ。

「東京には東京タワーがある!」「大阪だって通天閣があるやん」
「東京には芸能人が沢山いる」「大阪にはな、吉本の芸人がぎょうさんおるんやでーーー」てな感じに。そうそう、kaoは長崎出身の先生がいらしたんだけど、この先生の授業を始めて受けたとき、「みなしゃん・・・○×▼△■・・・・」????「先生って全国共通、標準語で授業すると思っていたから驚いたよ。慣れるまで、この先生の授業は英語の授業より訳すのが大変だった」という。あんな小さな世界の中で日本のいろんなカルチャーがミックスされていたあの学校環境ってある意味、すごいことだと思う。自分の世界から出たことのない子供にとっては、まるでインターナショナルスクールのようだった。

それから教室の中の大きな大きなクーラーにも驚いた。さすが台湾、夏の暑い日に下敷きパタパタやって暑さをしのぐなんてことは不可抗力でしかなく、教室はいつもこの大型クーラーによってビンビンに冷やされていた。その代わり、勿論ストーブなんてものはありません。外で遊んで教室に入ると、皆この大型冷蔵庫ほどのクーラーを抱きかかえるように涼しんだものだ。

あと暑さをしのぐと言ったらプール! プールはバスケットコートの前にあって1階が体育用具入れと男子女子の更衣室があり、その上の屋外にあった。この南国の野外プールは私の体にすごいものを残してくれた。台北日本人学校を卒業し、日本に戻ってきて室内プール有りの高校に入った私は、最初のプールの授業の時、クラスメイトが私の背後でなにやらヒソヒソと話しているのを耳にした。

「ねぇゆかの背中のこれ何?」
「なんだろね? 何か斑点のような模様がついているよね?」えっ? 背中だから自分では気がつかないうちに何か変な吹き出物でも出来たのか? 
「なに? どうなっているの? ニキビができているの?」と恐々聞くと、
「ううん、立体ではない斑点なの。斑点の部分だけ白くて、形はまん丸だったり楕円だったり、いろいろなの」
「その部分だけ日に焼けていないって感じで白いの」
えっ? 何だそれ? 家に帰って、必死になって鏡でよーくよく見ると、確かに私の背中には所々白い斑点がついている。さらによーく見ると、薄れかけた背中の日焼け、そして日に焼けなかった水着の跡とその白い斑点が同じ色であることがわかった。もしかして? そうなのだ。思うにこれが台湾の太陽の恐ろしさなのだ。プールから上がり、背中についた水滴が普通ならジワジワと蒸発して消えていくのだろうが、南国のすごい直射日光が瞬時にして水滴を蒸発させる間も与えずに、私の背中を直撃したものらしかった。そう考えてみると、その斑点の模様は水滴そのものだった。水滴による日焼け跡。ヒエーーー。恐ろしや、南国の日光! その夏、私は精力的に海でプールで背中にコパトーンを塗りまくり、背中一色化運動に励んだが、背中がヒリヒリ、かなりの火傷を負いながらも水滴跡は黒くなっても、残りの背中が更に黒くなってしまうため、一色化することは簡単にはできなかった。背中一色運動は翌年の夏まで持ち越され、どうにか落ち着いた。台湾の太陽は危険である。

そう確信したもう1つの出来事は、私が30歳に差し掛かるその年、前から気になっていた顔のシミをレーザーでとってもらいにクリニックに行った際のこと。医者に

あなた若いとき(失礼ね!今でも十分若いつもりでいるのに) 相当海で遊んだね

「いいえ、私、サーファーでもなかったですし、それに高校生になってからは、海に行くときもプールでも顔にはたっぷり日焼け止め塗っていましたから」
「おかしいね。これはかなり海で遊んだ人の顔だよ(本当に失礼! 」
「もしかして私小中学校時代台湾で生活していた影響でしょうか?」と言うと

「それだ! 台湾! 台湾だよ、原因は! それなら納得できるね。君の頑固なそのシミは台湾製だったんだ!」と豪快に笑われたことがあった。ねぇ、こーゆーのをセクハラならぬドクハラっていうんじゃない? とにかく、皆さん台湾の太陽は要注意ですよ!

さて、日本人学校。殆どが日本の学校と変わらない授業の中で週に1度だけ中国語の授業があった。先生は台湾の林(リン) 先生で、すごく顔の小さなスタイルの良い優しい男の先生だった。リン先生は流暢な日本語を話した。リン先生は見た目はすごく若々しかったから、当時いくつだったのか定かではないが、ある日何かの雑談の中で
「先生は戦争に行ったので、ご飯を食べるのも早いし、トイレでうんちをするのもすごく早いんですよ〜」
とおっしゃったことを覚えている。このとき私たち生徒はドッと笑ったけど、もしかしたら先生の流暢な日本語は戦争のせいかもしれないと今になると思う。この中国語の授業、通常の授業と同じように各クラスごとに行われたんだけど、クラスの中には幼稚園から台湾にいる子もいれば、1週間前に台湾に来たばかり・・・という生徒もいて、かなり語学力には差があった。でも、できるとかできないとか関係なく、皆競うこともなく楽しんで学んでいたなぁ。あの頃、必死に暗唱した中国語の文は今でもすらすらと口からでてくる。

「老師、今天天気 好 去パー山好不好?」「好バ」これはリン先生が作られたプリントの先生と生徒が天気が良いから山登りに行こうという会話。  

そうそう、こんな話がある。Kaoが大学生の時、高田馬場でヘベレケに酔っ払い、サークルの友人が当時住んでいた西武線の武蔵関まで電車で送り届けてくれたことがあった。その友人が後日Kaoに言ったそうだ。

「電車の中で何かへんな言葉を大きな声で繰り返してすごく恥ずかしくて途中で逃げたくなった」と。

完璧にしらふに戻った彼女が「なんて? いやだ、私なんて言ってたの?」と聞くと「くーにゃくにゃとか言ってた・・・ような」そうなのだ。Kaoは日本人学校で散々暗唱させられた灰姑娘(シンデレラ) の全文を電車の中で大きな声で暗唱していたのだという。私もその後、彼女が酔っ払い得意気に灰姑娘を暗唱している姿を何度となく見た・・・しかし、さすがここ数年は聞いていない・・・今じゃ、はるか彼方の記憶となってしまったってことね・・・ちょっと残念。)

台北日本人学校に通っているときは、早く日本に帰りたいとそればかり考えていたど、今こうして年を重ね、振り返ってみると、本当にこのときの記憶が濃ーーーく自分の中に刻まれていることに気がつく。今私の娘は小学1年生で、日本で普通に学校に通っているが、娘にも私が経験したような学校生活や海外での生活を味わせてあげたいと切に思う。なんて本当は自分も海外生活したっていうのもあるんだけどね。しかし、残念ながらそのようなチャンスは今のところないんだけど・・・。
何故か「小林亜星」が作曲した台北日本人学校の校歌、

♪南国の恵みゆたけき フォルモサに〜 未来の夢を胸に抱き〜(略) あぁ〜台北日本人学校〜♪(台北日本人学校校歌)

この歌を口ずさむたび、田舎のおんぼろ校舎で台湾のすごい太陽の下で過ごした楽しかった日々が浮かんでくる〜  

そうそう余談ですが、台北日本人学校出身で有名人といえば、金城武さん、石田ゆりこ、ひかり姉妹が有名ですが、今台湾で人気(だと思う) の田代加愛子さんもこちらの出身です。彼女のお父様とうちの父は同じ会社で、よく我が家にも遊びに来ていたんだけど、めちゃくちゃ可愛い女の子でした。彼女のお母様は台湾の方で、彼女の本名(名前の方) は中国でよくある女の子の名前なんです。私はまだ中学生だったけど、この名前の響きがすごく好きで、彼女がとても美人だったこともあり、将来自分に、娘ができたら絶対にこの名前をつけようと決めていた。そして・・・。

はい、あれから数十年後、実際に私は、茉莉花から文字をとって「莉々」(りり) という名前を娘につけたのでした。

 

 

注釈   梨山高山茶
暗くて汚い学校のトイレ
こんな感じ
見取り図、こんな感じ
急な時には
こっそりと
ここなら安心・・・しかし事件は起こった
きゃ〜
あんた誰?なに見てんのよ
泣きたいのはこっちだよ〜
更に恐怖は続いた
なぜなら犯人は三つ子だったのです

今回も読んでくださってありがとうございました。今回はリクエストにお応えして金城君も通っていた今は無き日本人学校について語ってみました。本当に田舎の分校みたいところでした。上記のマンガも実話でyukaは家に帰ってきて三つ子の誰に見られたか真剣に悩んでおりました。きっと目撃者の三つ子ちゃんのほうがいつ仕返しされるか恐怖だったと思います。お茶っぱ.comのご意見、ご感想がございましたらぜひ
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